小生はNHKの(その時歴史が動いた)を見るまで桶狭間の戦いで敗れた今川 義元をかなり軽視していましたが、目から鱗が落ちました。
う〜〜ん! 今川 義元 恐るべし この他の歴史上の人物も認識を改めないといけない人物がかなりいるかも。
因に、ナポレオンは大嫌いある。
織田信長がその名を天下にとどかせた桶狭間(おけはざま)の戦い。今川義元の大軍を信長が奇襲し、奇跡的な勝利をとげた合戦として知られている。
しかし近年の研究で、これまでの義元像そして桶狭間の戦いそのものの実態に、従来の通説と異なる様々な事実が明らかになっている。貴族化した武将とされてきた今川義元は、実際は、家臣・農民の組織化をはかり一大軍事集団を作り上げた革新的武将だった。
一方、東海地方の覇権をめぐって対立していた織田氏は、義元に敗退を重ねていた。父・信秀の死後、義元との戦いを引き継いだのが信長。この時わずか19歳。
天才的な武将とされる信長だが、実はその手本を敵将・義元に求め、その強さの源である「組織力」を徹底的に学んでいた。その中から信長はさらなる創意を重ね、のちにノブナガイズムともいわれる独自の軍事力を作り上げていった。
頭角をあらわす信長に危機感を抱く義元は、ついに信長軍殲滅(せんめつ)を決行。義元と信長。二人の革新者の戦略が桶狭間で激突する。 NHK- その時歴史が動いたより
義元左文字
元束 一尺八寸(元は二尺六寸)
●三好宗三から武田信虎。信虎の娘と今川義元の婚儀の祝にと、義元に贈られた逸品。
1560年5月19日織田信長に義元が討たれると、戦利品として信長の手中に入る。そのおり「永録三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀織田尾張守信長」裏に「織田尾張守信長」と金象眼をほどこした。その後本能寺で信長が討たれると、本能寺の焼跡から豊臣秀吉が探し出し所持、そのまま秀頼の手に渡り、1601年秀頼から徳川家康に贈られ、徳川の宝物となる。
その後天明の大火で焼け、再刃され1788年、織田信長を祭る京都健勲神社に奉納され、現在に至る。 名称は様々有り「義元左文字」の他「宗三左文字」ともいう。
